ART-SCHOOL、ZAZEN BOYSのベーシストを経て、ストレイテナー、Nothing's Carved In Stone、FULLARMORのベーシストとなり、バンド以外にHH&MMとLOVE SESSIONと題してのセッションや他アーティストのレコーディングなどにも多数参加。中学1年生の13歳でベースを始め、20歳前後でベースを2年間ほど手にしなかったブランクを除いて、この25年はベースとともに歩みを進めてきた“ひなっち”こと日向秀和が、改めてベース道四半世紀を語る。
ベースを始めて1週間で夢中になりました
日向「そうです。友達とバンドを始めようとしたら、みんなはギターがよかったんですよね。当時は、ベースヒーロー的な人はいなくて、ギターは布袋(寅泰)さんをはじめヒーローがたくさんいたので、みんなギターを弾きたがるわけですよ。こんな性格なんで、“だったら、空いているベースでも弾いてみようかしら”と手にとったのがきっかけです。ギターも少しは触っていたんですけど、ベースを始めて1週間で夢中になりました」
日向「当時流行っているポップスが載っている教則本みたいなものを買ってやり始めて。ベースを始めてすぐにコードはだいたい覚えて、当時流行っていたBOØWYや好きだったエアロスミスを耳コピをするようになって楽しくなっていったんですよね」
日向「すぐできました(笑)。何ですんなりできちゃったんですかね(笑)。ずっと音楽が好きで聴いてたからかな。TAB譜を見ながら最初はコピーしていたんですけど、耳で聴いて覚えたほうが早いって思ったんですよね。1ヵ月後くらいには、エアロスミスの曲をガンガンコピーするようになって。1年後には、リズムマシーンを買ってもらって、全部ドラムを自分で起こして入れて、そのドラムに合わせて練習するようなことをしていました」
日向「のめり込んじゃってから中学2年生くらいになると、学校もあまり行かずに1日ずっと弾いてました。いろんな楽曲のコピーをしながら、中学時代はそんな生活をしていました」
日向「今でも弾いていますね。楽器屋さんの壁に飾ってあるプレシジョンベースを見て、“コレ、カッコイイ!”と思って選びました。7万8千円だったかな。今では、すごい傷だらけですけどね。当時は尖っていたこともあり、そのベースが宙に浮くこともあったので、それゆえに傷だらけですけど(笑)」
日向「ハッハッハッハッ(笑)。当たったらかなり痛いですね。いやあ、よくここまで人格が形成されました(笑)」
どこに行っても“日向はベースが上手い”って言われたかった

日向「日本では、『ベース・マガジン』の表紙を飾るようなベーシストは、フュージョン寄りの方が多かったですね。自分的には、海外ではラリー・グラハム、トム・ハミルトン(エアロスミス)、日本では、加部正義さん(ピンククラウド)が好きでしたね」
日向「そうですね。でも、当時は“当方、プロ志向”みたいな感じではなかったです(笑)。逆にそういうのは、“ダッセェじゃん!”って思っていましたから(笑)」
日向「町田(出身地)の高校生のネットワークで、人づてに“●●がギターが上手い”とか入ってくるんですよ。そこで、まず1番になりたい! どこに行っても“日向はベースが上手い”って言われたかったんで、そこは達成しました。それはそれで楽しかったですね。当時は、ミクスチャーが流行っていたこともあって、上手いことが前提だったんですよ。テクニックも持ってるし、ひたすら正しくストイックに弾けるようなスタイルが求められていたこともあって、ゲームが上手くなるようにベースに没頭していました」
日向「そうなんですよ。プロにはなりたいわけじゃないけど、“すげぇ、上手い!”って言われたかったんですよね」
日向「4つくらいやっていましたね。同級生のバンドや先輩達と。ジャンルもバラバラで、尾崎豊やTHE BLUE HEARTSのコピーからピストルズやラモーンズのような初期パンク、ミクスチャーやレッチリやスティーヴィー・サラスのようなテクニカル志向の洋楽も、なんでもやっていましたね」
日向「何でもやっていましたけど、本格的にやっていくのは、洋楽的なアプローチかなと思っていました。やっていて、そっちのほうが楽しかったんですね。ヒップホップが好きだったんで、ブラックミュージックが基本になっていって、そっちに傾倒していった感じです」
日向「18、19歳の頃、ハードコアなバンドをやっていたんですけど、ドラムのシゲ(現cro-magnon)がアメリカのバークリー大学に行っちゃって。残されたメンバーのあまりのハードコアさについていけなくて、自分も興味がなくなって辞めたんです。そこから、焼き鳥屋をやりつつヒップホップを聴きながらクラブで遊ぶようになって」
日向「19歳から21歳くらいまではベースは埃をかぶっていましたね」